附三年四月十八日はしめそ入國北いとはをとまふ、是時備前兼長比御刀を拜受を、五年正月十五日比叡山中堂諸堂社修補ろ事〓助をしにより、時服三十領ををまひ、二月十一日家臣等にも物をたまふ、十三年二月二十一日致任し、二十九日但馬守にあらたむ、天明七年十一月二十四日廣島は成いあ卒に、年七十一、天隨道仙鶴皐院と號を、葬地長晟りれあし、十二月七日奉書も〓病をとハせゐまふ、もと宗恆卒にる事、いまと言上り成よハさをしよよりてな〓、十日奏者番板倉左近將監勝政をもて、賻銀三十枚をさはふ、室ハ松平加賀守吉德ク女、志けあきら重晟寛保元年廣島リ生〓、實曆七年二月十五日としたて惇信院殿に拜謁し、八年十一月二十八日御前りをいあ元服し、御諱字をたまひ重晟と稱し、三原正直比御刀を賜いり、從四位下土總介よ敍任を、十三年二月二十一日封を襲、安藝國をよひ備後國北うちみをいあ、四十二万六千五百石餘を領し、安藝國廣島城り住し、三月朔日安藝守にあらたむ、四月十五日そしたて入國比いと匁滋をまひ、廣賀比御刀をたまふ、明和元年閏十二月十八日侍從とれて、四年六月十五日さたり關東川々比普請をたとをしにより、時服三十領をせまひ、七月三日家臣等り〓あるも比あま、安永八年十二月朔日ヲをよりけき、日光山御宮修補比事をにとめしみよで、をるもろ前みれ〓し、七日家臣等にえ物を賜ふ、天明七年五月朔日關東をよひ、伊豆國川々比普請〓預と、物そまふ事上りたあし、六月二十六日家臣等よもゐるえの〓〓と、寛政二年十一月二十七日少將にもゝむ、室ハ尾張中納言宗勝卿乃三女、卒もるゐよて其七女を娶る、なりかた齊賢安永二年生於、後二男登りといへとも、まふて松平を稱し、四年四月九日嫡子とれを、天明七年三月十五日としたて將軍家りはみ冬たてま(りる五歲、五時数、十寛政元年二月二十三日御前りをいあ元服し、御一字茂賜む齊賢ま利を、是時備前利恆比御刀ををあむ、從四位下右京大夫り敍任し、六年十二月十六日侍從となな、室い有栖川中務卿織仁親王比姬宮、