附をゐまひ、天和元年六月二十五日松平越後守光長ろ家臣本多八太夫某をめしあつをらふ、元祿四年十二月二日致仕し、十五日得物信國の脇指、靑磁の香爐を獻し、御臺所リ飛鳥井榮雅筆比古今集をはいらも、實永二年十一月十五日卒に年五十四、壁龍禪拔騰雲院と號を、貝塚比靑松寺に葬ふ、室ハ廣幡大納言忠幸り女、なかすみ長澄寛文十一年生な、天和元年二月十二日はしたそ常憲院殿りは〓〓〓〓〓〓時3十二年八月六日長照り養子となり、貞享二年十二月二たてはつる、一歲、十八日從五位下土佐守に敍任を、元祿四年六月五日奧詰とみり、十二月二日封を襲、奧詰をゆるさな、五年四月二十一日ハしめて領地まゆく比いと匁をさぬふ、十一年水野松之丞勝岑ク城地を除なゝゐより、六月五日仰をうをあ、備後國みたもむき、福山城をうをとる、寶永四年十二月二十八日濱御殿ろ普請を勤めしぬより時服十領をと匁ひ、二十九日家臣等に物をさまふ、享保三年八月四日三次リをいあ卒に、年四十八、霖應熊山天柱院と號も、葬地長治よれおし、室ハ小笠原右近將監忠雄グ女、時3十十五日ハ長經寶永四年三次よ生る、享保三年十月二日遺領を繼、二歳、しめて有德院殿ままみ冬をてまりる、是日父り遺物靑江の刀を獻を、四年四月二十三日卒K、年十三、孝嶽紹胤鳳章院と號を、葬地長照みたあし、嗣ふくして家たゆ、所領を松平安藝守吉長り還したまただ、さね長寔正德元年三次よ生な、享保四年十月二十五日宗家吉長りもとより、五万石をわりちうけ柳間リ候そ、五年五月二十一日卒に、年十、丹香來雲瑞麟院と號を、葬地長照りおれし、嗣ふきみより、所領を吉長よ還附さられ、淺野內匠頭長矩あとき、罪あてて家たゆ、おらしゃ又又一郎長兵衞長重采女正從五位下淺野彈正少弼長政ク三男、母ハ淺野又右衞門長勝ク女、〇事蹟下ニ載정