附えふ、慶長四年東照宮比仰よよりて江戶よ至り、五年正月よ〓台德院殿比御傍よ勤仕も、三歲、時對トれち從五位下釆女正り〓任そ、えHとし上杉景勝を御征伐あるによで、御供み列しあ下野國宇都宮み至る比ところ、十五歲みみとけるも比ハ、供奉よ列もへクらける比むね台命あるにより、まきちゃ長重もいと匁たあいりて江戶よ歸る、六年下野國眞岡〓よして領知二万石を賜む、七年東照宮北仰よよりて松平玄蕃頭家〓ろ女を娶な、十年台德院殿御上洛乃とき、亥とろひたすまりて、四月六日將軍宣下御拜賀茗供奉をりとむ、後洛よ比ぞらきたまふもとよ御供り列も、十六年櫻田ま土橋〓石垣をよむ堀ろ普請をりとむ、え比とし父り隱栖ろ料常陸國眞か、堅郡るうちにしお元万石餘を期六年八領知いむきめらる十九年大久保忠隣り所領を沒收をらなゝろとき、安藤對馬守重信、本多出雲守忠朝等と共ま小田原よ赴き、其城を受とをもきを破却を、え比とき長重一番〓彼地り赴きし事〓きもしめさ終、兩御所比御感よありろる、後大坂ろ役まゑとろひたあまりと、十一月二十六日嗚野合戰ろとき、仰みよりて本多忠朝の加勢とかるといへとも、戰む終るぬより今福よ陣も、元和元年比役みも御供よ列し、五月六日道明寺口合戰北ゝち、忠朝とゝもよ御先手をうきたるいるりよ〓、其夜軍をもゝめ、七日ろ早天り阿部野に至な北ところ、敵將森豐前勝永大軍〓率ね〓そゝみ來る、長重をミやろよ軍を進めあ奮戰も是とき家臣等討死をたえ比三十餘人、雑兵百餘人りをよへり、長重いよ〓〓下知を傳へて追うちし、天王寺木戶口を破冠、ふ液進むく城ぎハリ至る、ゐのとき敵首六十級をうちとる、四年半藏口御門芝地形を築く、八年本多正純あ所領を收めらなゝ托とた、仰をうをたまいりて下野國にたもむき、宇都宮城をう多て、守衞し、ろち下總國古河城を守る、其後常陸國笠間城をたまひ、新墾田をあいきて五万三千五百石餘を領し、御朱印を下さる、ゐ北とき執事比えの、台德院殿〓仰を傳へていてく、累年精勤をなによて、領知を他國にうりされ、加增あなへし、そし笠間城リ居し、眞壁を領きんとあらハ、所領もとのあとくあなへしと、長重もとへて申けるハ、眞壁よハ父あ墓所あり、願いくハもとのもとく笠間城み眞壁を加るてたるハらハ、加增比望あしと、卽あ此むねを上聞に達もるろところ、其志を御感ありて、御前まめさ終懇比仰をかうぬれ、