附寛永四年陸奧國若松城を在番も、六年西城兩虎口、をよひ土橋石垣所々比普請を助造も、九年四月大猷院殿日光山〓まうてたまふのとき今市御旅舘の普請をにと冬、北ち病よろゝなのとき、永井日向守直〓をして問きさまふ、九月三日卒に、年四十五、銕山道牛華嶽院と號す、眞壁郡北傳正寺に葬は、室ハ松平玄蕃頭家〓ク女、なかな我長直慶長十五年生な、寛永八年十二月三日從五位下內匠頭よ敍任を、九年十月二十九日遺領を繼、柳間よ候す、後代々れれし、十一月朔日父り遺物芝靈石筆比掛幅、をよひ屏風二帖を獻す、ませとし駿河大納言忠長卿乃家臣大久保將監忠尙、をよひ男長次郞某をめしありきらる、十一年駿府城を守衞し、十三年西城普請ろ事をたとむ、お比とし大猷院殿日光山にまうてたまふ比とき、亥とりひふてはつり、比ち御登山あなあとみ供ひかざかさ発び正保二年六月二十二日領知を擁癒圃赤礁加西加東佐用四郡比内みうりさる、お比とき仰よよてて、あらたよ赤穗城を築きてもれよ住も、寛文三年七月二十日けきみめしありをらとし大久保長次郞某、庄之助某、水谷市之丞某、弟熊之助某、長太郎某をゆれさる、十一年三月五日致仕し、二十二日得物包永ろ刀をたそまりる、十二年七月二十四日卒〓〓年六十三、湖山常〓久岳院と號を、高輪の泉岳寺に葬る、室ハ丹羽五郞左衞門長重ク女、なかとも長友寛永二十年生る、承應元年七月二十六日としめて嚴有院殿りは〓時〓〓たてまりる、十四歲明明三年十二月二十七日從五位下采女正り敍任し、寛文十一年三月五日封を襲、五万石餘を領し、兄內記長賢り三千五百石、弟長三郞長恆よ私墾田三千石をわりちあさふ、十二年六月二十二日ハしたて封地〓行ろいと匁をとまふ、延實三年正月二十六日赤穗りをいあ卒に、年三十三、心富異卽景永院と號を、葬地長直りおれし、室ハ內藤飛騨守忠政ク女、なかのり時〓長矩寛文七年生な、延寶三年三月二十三日遺領を繼、九歲、四月七日はしめ〓嚴有院殿り拜謁を、おの日父ク遺物備前守家北刀を獻も五年四月四日關口作左衞門某をめしあつきらる、八年八月十八日從五位下內匠頭〓〓任し、天和三年六月二十三日はしめて領地りゆく比暇を賜ふ、元