附錄とて、出仕をとゝめら於、九月二十二日ゆるされ、九年十月九日御小性組の番士となり、十一月十五日よ〓二丸〓候し、十年六月朔日より西城リ勘仕し、御書院番をはとむ、十五年正月十一日御使番りう印套、十二月十八日布衣を着もる事をゆるさる、元文四年二月三日西城新番ろ頭よもゝみ、五年十一月二十日死も、年四十六、法名了身、妻ハ正氏り女、後妻ハ小笠原筑後守長定り男、主計長卿り女、15頭氏元文二年九月十八日はしたて有德院殿りはみやたくまりる、時3十五歲、二十七日浚明院殿山王社り詣たまふ比時、騎馬よく供奉を、五年十二月二十三日遺跡を繼、寬保二年十月四日死も、年二十、法名智全、15氏從寛保二年十二月二十六日遺跡を繼、三年三月十九日はしえて有德院殿〓拜謁し、延享二年九月十三日御小性組の番士よ列し、後的を射、或さ放鷹り玄さろひ、鳥〓射そ時服をさはふ、實曆五年七月二十六日さた车美濃伊勢尾張等比川々普請の事を監をしにより、黃金十枚をあまふ、六年正月十一日御使番とれる、え比年美濃國加納城を永井伊賀守直陳みたまふみより、八月十五日仰をうあああハりあ、彼地りたもむき、城引渡ろ役をりとむ、十一月二十八日御目付に轉し十二月十八日布衣を着もる事をゆなさる、十一年三月二十一日西城新番北頭みもゝむ、二十七日さたよ聖堂修造比事にありりてしみより、黃金二枚を賜ず、八月三日より本城よ勤仕し、明和元年六月二十八日日光奉行すあり、十一月十三日從五位下美作守り敍任も、七年十二月二十四日職を辭し、寄合とれる、安永八年八月四日致仕し、九年六月十一日死も、年五十五、法名玄心、妻ハ酒井式部可廣り女、うちかさ明和五年十二月朔日はしめ〓浚明院殿りはみぞたそまつて安永氏象ヽ時〓二十八歲、天明元年五月七日御小性組の番士八年八月四日家を繼、采地二千石、とれる、妻ハ酒井小平次忠顯り女、後妻ハ稻垣藤九郞昭庶ク養女、又山中平吉鍾俊り女を娶る、六二九