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 第十代 崇神天皇の御代に至り、八咫鏡と草薙劔とは宮中を出でさせられ、一旦大和の笠縫邑に留り給ふたが、第十一代 垂仁天皇の二十六年、伊勢國五十鈴川上の地に鎭祭を受けさせられた。之れ實に皇大神宮の御創祀である。  第十二代 景行天皇の御代、皇子日本武尊は東夷征討の勅命を受けて御進發の途次、伊勢神宮に御參拜、御姨倭姫命に御暇乞あらさられたが、倭姫命は此の時御神慮に依つて神劔と燧嚢とを尊に授け給ひ、「愼みて怠り給ふ莫れ」と懇ろにお諭し遊ばされた。こゝに尊は神劔を奉じ、勇躍して尾張國に入り、吾湯市《あゆち》の氷上《ひがみ》の里([#割り注]現在知多郡大高町熱田神宮攝社氷上姉子神社の附近[#割り注終わり])なる國造乎止與命《をとよのみこと》の館に留り給ひ、征討の事を議せられ、後進んで三河・遠江を過ぎ、駿河國に至り給ふた。時にこの國の賊等詐り降つて、尊を野に誘ひ、火を四方に放つて失ひ奉らんとしたが、神劔の靈威に依つて危難を免れ給ひしのみか、燧を以て火を點じ、賊徒を悉く燒き滅ぼし給ふた。之より神劔を草薙神劔と稱し奉る。次いで尊は遠く常陸より日高見國に進み入り給ひ、強暴なる賊酋を悉く平定遊ばされ、皇威を邊國に耀かし給ふて、凱旋の途に就かせられた。  かくて御歸還の途、再び尾張國造の館に留まり、乎止與命の女宮簀媛命を納れて、妃となし給ふた。たま/\近江國息吹山の賊暴威を揮ふと聞召し、神劔を宮簀媛命の御許に留め置いて、息吹山に嚮はせられた。しかるに山中の毒氣に觸れて御病を獲られ、急ぎ都へ還らせ給ふ途次、伊勢國能褒野(現今三重縣鈴鹿郡川崎村大字田村縣社能褒野神社及び能褒野墓の地)に薨じ給ふたが、その御重態の際にも、深く神劔の上を御懸念あらせられ   袁登賣《をとめ》の床の邊に我が置きし劔の太刀其の太刀はや と詠嘆遊ばされたといふ。  宮簀媛命は尊のこの深い御遺志を重んじ、神劔の御靈威を畏んで、社地を吾湯市の熱田に卜定し殿舍を造營して、いと懇ろに之を奉齋せられた。皇國の鎭護として、赫々たる御神威を顯し給ふ熱田神宮は、實にこの時を以て創祀せられたのである。

[#7字下げ]三、朝野の崇敬[#「三、朝野の崇敬」は中見出し]

 熱田神宮は伊勢神宮に亞ぐ御由緒の尊い大社として、殊に武神として、古來 皇室を始め奉り朝野の尊崇甚だ厚かつたのである。古く 天武天皇の朱鳥元年には社守七員を置かれたと傳へ、延喜の制にも名神大社に列せらるゝは御本宮を始め攝社高座結御子神社・同日割御子神社・同孫若御子神社の四社に及び、並小社としては別宮八劔宮・攝社下知我麻神社・同上知我麻神社・同御田神社・ 同氷上姉子神社・同青衾神社の六宮社を算する。而して本宮の御神階は 清和天皇貞觀二年正二位 に叙せられ、日本紀略康保三年の條に、「正一位熱田大明神」と稱せられてゐる事から攷ふれば 村上

<trjpft> 「熱田神宮略記」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>旧仮名</kstyle><tstyle>青空</tstyle></astyle> </trjpft>