Info:ndljp/pid/781562/8

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其後元和三年に、毛利輝元の子就訓が封を分つて、周 防徳山の城主になられたが、其時に彼の良盛法印は、 輝元の命令を受けて就訓に随ひ徳山に移り、就訓は之 が爲めに、修験道の寺を建てて教學院と名け、用人席 の待遇をもつて本山派(即ち聖護院門跡の末寺たる) の山伏となることを得せしめられたのである、一寸茲 で申しておきますが、修験と申す者は、慶長五年徳川 幕府に於て定められたる條目にも「七社引導は修験の 職たる可き事」とあるので、即ち島田家は其後毎年毛 利氏の代参として七社を巡拝するのを大事の役目とし て居つたので、其後代参に出發する時には君公の御 代参と云ふのであるから、毛利家に於ては餘程鄭重に 取扱はれたものであるさうである、其後久しい間格 別の事もなかつたが、彼の始めて修験になつた元祖の 良盛から九代目が即ち蕃根翁の祖父であつた、此人は 餘程の學者であつて色々面白いお話のある人である、 然しながら今は委しいことを申して居る暇がありませ んから、極めて大略を申して置きませう、

先づ其人は名を浄観と申し別號を藍泉と申して、彼の 物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深 く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか ら、時の名家たる皆川淇園或は頼春水といふやうな學 者と親しく交つて、其の詩文集を出版した時には三條 公から序を賜り、又友人の春水が其の子の頼襄(即ち 山陽外史)に之を浄寫させて、之を出版し又友人たる龜 井道載も篠崎應道(小竹の父)も共に序を作つて居るの を見ても、其學術文藝が如何程深くあつたかと云ふこ とが推し量られるのである、況んや龜井道載の如きは 九州中國の間に於て古學の門戸を張り一方の老儒先生 たるにも拘らず其子の昭陽を特に此の藍泉法印の門下 に學ばせたといふ事であるから、餘程其學門に就いて は敬服して居つた者であると見える、斯様なわけであ るから、徳山藩におかれても、此人を優待せられて一 藩子弟の學事を擔當せしめ、即ち徳山藩の學舘たる鳴 鳳舘と申す者は實に此の人の創立したのであつたと申 すことであります。其浄?法印即ち藍泉の子に義乗と

いふ人がありまして、これが即ち今の蕃根翁の父親で ある、翁は文政十年一二月二十八日生で本年が八十才 になるのである、初めの名を圓眞と申して父祖の家業 を嗣ぎ、即ち天台宗本山派修験道の大先達として、教 學院の住持職になつたのでありますあg、學術は専ら祖 父藍泉の系統を承けて、主に古學を學んで居られたけ れども、獨り其に偏せず博く朱學及び考証學等に渉 り、殊に博覧強記であつて諸子百家の學説に通ずるの みならず、有らゆる諸家の雑著随筆等を渉猟して居ら れるので何を問うても分からぬといふことなく後進子弟 の爲には活きた圖書館のやうな人である、現に今年八 十の高齢に達しても其書斎へ往ってみれば古本屋の見 世先をみるやうな亂帙の中に悠然と坐して習字などし て居る様子は實に古の高僧名儒の傳記中に屢々記述せ られたる風采を、目前に見ることが出來ます、殊に 翁は其家道たる脩験の教理及び其條法を傳持されたば かりでなく臨済宗大成寺の住持閲龍和尚に随つて深く 其教を受け、更に伊豫金剛山の晦巌禪師が大成寺に來

寓せられた後は禪師に随學すること多年に及び、之が 爲めに禪學其他諸宗派の教理にも通ずることを得たの である、それで翁と話をして居るとよくこの晦巌禪師 の性行についての逸話が出る、之を以ても翁が深く禪 師に心服して居られたことが分るのである、

かくて翁は御維新にあたつて徳山藩主から脩験をやめ て仕官するやうにとの命を受けたので、先づ興譲舘( 是は翁の祖父、先に申した藍泉先生が創立せられし所 の學舘を改名せし處)の教授に任ぜられ藩士の子弟を 教育せられたが更に待遇を家老席に進められ藩主の諱 元蕃の片字を賜つて蕃根と改めました、それで翁の名は 蕃根と音讀するのでなく、蕃根(みつね)と訓むのである、

其後教育ばかりでなく政事にも関係する事になつて遂 に徳山藩の大参事に任せられ、色々治蹟もあつたが、 明治四年に至つて同列の家老、(今日此席に見えて居ら れまするが翁と同じく蕃の字を藩主から賜つた無二の 交友であらるる)尾越蕃輔氏と相談して、徳山藩を自ら 廢して、本家の山口藩に合併することを願ひ出でら


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