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− | + | 随分古いことになりますから、碌々覚えても居ませぬ、 | |
+ | 段々年も寄つて来るし、忘れっぽくなって来るから、 | ||
+ | 多分間違ったことも云うでしやう、併し今日まで、まだ | ||
+ | 藏経開版の顛末を書いた人もないやうですから、少し | ||
+ | ばかりに話しましやう、 | ||
− | + | 二、全体「縮刷藏経」の出来上がった、そもそもの始まりは、 | |
+ | 私が獅子谷の忍澂上人の伝を読んだのが、原因なので | ||
+ | す、 忍澂上人が、「心地観経」を読んで、其中に文句の | ||
+ | 通らぬ處があつたのを見て、これではならぬと云うて、 | ||
+ | 他の藏経と照してみて、始めてその誤を正したと云 | ||
+ | ふとか、上人の伝記にあつたから、自分も大藏経に誤 | ||
+ | りがあるに違ひないと云ふことを考へて居りました。そ | ||
+ | れから、後日になつて、忍澂上人の「對校録」と云ふ | ||
+ | 書籍を見て、藏経の校訂に従事した始末は、誰でも知 | ||
+ | つて居る處ではあるが、まだ知らぬ人の為に、少しお | ||
+ | 話して置くもよからう、 | ||
− | + | 寛永 間、京都獅子谷忍澂上人嘗て疑を明藏に発す、 | |
+ | 高麗藏を閲するに及んで大に得る所あり、是に於て、 | ||
+ | 更に大藏を對校する願を発し、一日奮然として曰く、 | ||
+ | 大?の頗る一木何ぞ堪へん、今や、明藏の誤脱を発 | ||
+ | 見す、而して校訂の任、一身何ぞ堪へん、如かず、衆 | ||
+ | と之を謀らんにはと、乃ち書を三縁山増上寺に寄せ | ||
+ | て同志者十餘人を獅子谷に招致し、始めて對校に従 | ||
+ | 事す、然るに建仁寺藏規あり、門外に出すを許さず、 | ||
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+ | に建仁寺に諭して上人の請う所を許さしむ、實に寶 | ||
+ | 永三年丙戌也。是歳二月業を起し、七年四月に至り | ||
+ | て其功を竣ふ、校すること凡そ三次、毎次人を喚びて、 | ||
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+ | まあ、忍澂上人の對校の仕方はこんなものであつて、 | ||
宝永三年から七年まで、撓まずに校訂して、終に、立 | 宝永三年から七年まで、撓まずに校訂して、終に、立 | ||
派に藏経を校訂して了つた、尤も唯だ、獅子谷にある | 派に藏経を校訂して了つた、尤も唯だ、獅子谷にある | ||
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まだ出版したわけではない、けれども、私は大に忍澂 | まだ出版したわけではない、けれども、私は大に忍澂 | ||
上人の志に感じたのです。序でに云つて置きますが、高 | 上人の志に感じたのです。序でに云つて置きますが、高 | ||
− | + | 麗版の大藏経と云ふのは、云ふまでもない、朝鮮の藏 | |
− | + | 経で、朝鮮の国王が仏法に帰依した餘り、支那の大藏 | |
経の非常に誤謬のあるのを慨き、偏く宋朝の藏経、国 | 経の非常に誤謬のあるのを慨き、偏く宋朝の藏経、国 | ||
前本、国後本、中本、丹本、東本、北本、?宋本等の | 前本、国後本、中本、丹本、東本、北本、?宋本等の | ||
− | + | 幾多の大藏経を一つに纏め、多勢の僧侶等に充分校正 | |
せしめ之を開版し、四方へ伝播せしめたのが即ち高麗 | せしめ之を開版し、四方へ伝播せしめたのが即ち高麗 | ||
− | + | の藏経で、是等の種々な藏経を對照して、其の誤を正 | |
したのであるから、實に此の位完全な藏経はない、之 | したのであるから、實に此の位完全な藏経はない、之 | ||
れが日本に伝わはつて、建仁寺、増上寺にあつたのです | れが日本に伝わはつて、建仁寺、増上寺にあつたのです | ||
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―何?も今の有様では仕方がない、即ち日本の増上 | ―何?も今の有様では仕方がない、即ち日本の増上 | ||
寺にある「藏経」は随分貴いものなのです、 | 寺にある「藏経」は随分貴いものなのです、 | ||
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+ | 「島田蕃根翁」: [[info:ndljp/pid/781562/10|前頁]] | [[info:ndljp/pid/781562/12|次頁]] | ||
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2014年2月10日 (月) 22:04時点における最新版
第二章 翁の大業と終生の希望
一、縮刷大藏経開版始末
島田蕃根翁談話
一、 「縮刷大藏経」(今の活版の藏経)開版のことですか、モウ
随分古いことになりますから、碌々覚えても居ませぬ、 段々年も寄つて来るし、忘れっぽくなって来るから、 多分間違ったことも云うでしやう、併し今日まで、まだ 藏経開版の顛末を書いた人もないやうですから、少し ばかりに話しましやう、
二、全体「縮刷藏経」の出来上がった、そもそもの始まりは、 私が獅子谷の忍澂上人の伝を読んだのが、原因なので す、 忍澂上人が、「心地観経」を読んで、其中に文句の 通らぬ處があつたのを見て、これではならぬと云うて、 他の藏経と照してみて、始めてその誤を正したと云 ふとか、上人の伝記にあつたから、自分も大藏経に誤 りがあるに違ひないと云ふことを考へて居りました。そ れから、後日になつて、忍澂上人の「對校録」と云ふ 書籍を見て、藏経の校訂に従事した始末は、誰でも知 つて居る處ではあるが、まだ知らぬ人の為に、少しお 話して置くもよからう、
寛永 間、京都獅子谷忍澂上人嘗て疑を明藏に発す、 高麗藏を閲するに及んで大に得る所あり、是に於て、 更に大藏を對校する願を発し、一日奮然として曰く、 大?の頗る一木何ぞ堪へん、今や、明藏の誤脱を発 見す、而して校訂の任、一身何ぞ堪へん、如かず、衆 と之を謀らんにはと、乃ち書を三縁山増上寺に寄せ て同志者十餘人を獅子谷に招致し、始めて對校に従 事す、然るに建仁寺藏規あり、門外に出すを許さず、 ?々近衛基熈公大に忍澂上人の此挙あるに感じ、特 に建仁寺に諭して上人の請う所を許さしむ、實に寶 永三年丙戌也。是歳二月業を起し、七年四月に至り て其功を竣ふ、校すること凡そ三次、毎次人を喚びて、 異同あれば、即ち行間に註せしむ、
まあ、忍澂上人の對校の仕方はこんなものであつて、 宝永三年から七年まで、撓まずに校訂して、終に、立 派に藏経を校訂して了つた、尤も唯だ、獅子谷にある 明版の藏経に、高麗版の善い所を挿入れただけのことで、 まだ出版したわけではない、けれども、私は大に忍澂 上人の志に感じたのです。序でに云つて置きますが、高 麗版の大藏経と云ふのは、云ふまでもない、朝鮮の藏 経で、朝鮮の国王が仏法に帰依した餘り、支那の大藏 経の非常に誤謬のあるのを慨き、偏く宋朝の藏経、国 前本、国後本、中本、丹本、東本、北本、?宋本等の 幾多の大藏経を一つに纏め、多勢の僧侶等に充分校正 せしめ之を開版し、四方へ伝播せしめたのが即ち高麗 の藏経で、是等の種々な藏経を對照して、其の誤を正 したのであるから、實に此の位完全な藏経はない、之 れが日本に伝わはつて、建仁寺、増上寺にあつたのです が、建仁寺のは、同寺の百九十世永?禅師と云ふ人が、 堂字修繕費勧募の為め朝鮮へ渡つた折に持つて来たの で、大切にして居たのであるが、天保八年に火事で焼 けて、僅か四十九巻しかないさうです、尤も、朝鮮に は高麗本の版がまだ保存してあるとは聞きましたが ―一時滅版したことと思つて居たが、今もあるさうだ ―何?も今の有様では仕方がない、即ち日本の増上 寺にある「藏経」は随分貴いものなのです、
<trjpft> 「島田蕃根翁」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>旧仮名</kstyle><tstyle>Wikiのみ</tstyle></astyle> </trjpft>