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まあ、コンな風で、大蔵経は、高麗本が一番完全なも のです、彼の黄檗版の藏経は、明版を翻刻したのです から、ヤハリ高麗蔵に比べては完全とは云はれませぬ、 そこで、私は忍澂上人の事を聞いて初めて藏経開版の ことを発願したので、之が「縮刷藏経」開版の第一の動機 です、

それから、第二の理由が、支那の歴史で見ると、何か 高僧の名著でもあつて、皇帝の御意に召すと、「勅して 大蔵に入る」とあつて、直に藏経の中へ入れて了ふ、 さうして皇帝の序文とか、宰相の序文とか云ふものが 藏経の首に付いてあつて、中々貴いものであるから、 何卒日本でも、佛教の貴い典籍は斯様工合に尊重して、 セメテは天皇陛下から序文を戴き、将軍家に跋でも書 いて貰つて、一つ日本の大蔵経を作りたいと思つたの か、即ち私の藏経宿初を発願した第二の原因で、これ はまだ、私が二十歳代の時なのです、 其後、日本も、御維新となり、字生が変遷して来まし たから、一時は、そんな考へも中絶して居ましたが、

彼の耶蘇教の輩が、バイブルを、僅かな代価で売捌い て、大に布教の便利を得て居るのを見て、益々佛教挙 掲の為に、藏経を活版にしたいと考へ始めました、大 蔵経は實に立派ではありますが、あんな大きい本では 仕方がない、何様でも活版にして、携帯に便にしたいと 云ふのが、私の希望であつて、之が第三の理由です、 ツマリ、此の三つの原因が寄り集まつて、遂に、「縮刷大 蔵経」開版のことは成立つことになつたのです、

 一度考へて置いて、其れを念頭に存する時は、何事 も成功するものです、ツマラない私の愚な考へが、遂 に、明治年間の大出版を仕遂げることになりましたから、 何でも、志は堅うないといけませぬ、

三、最初の計画

私が、最初此の相談をしたのは、大阪の商人、堺屋 仁兵衛と云ふ人が一番の初まりです、私は明治五年に 東京に出て、教部省に出仕し、例のお役人様のことをや つて居りましたが、此の堺屋仁兵衛は、高野山へ孔雀 堂と云ふ堂を建てた人で、其人に話をしたのが、第一

番の発端で、それから、又、真言宗の律僧より帰俗し たる、山内瑞圓と云ふ人に話をして、其の瑞圓から、 當時の管長の獅岳快猛と云ふ人に話をした、―尤も 之は明治十年の後です、處が獅岳快猛さんも大に賛成 して呉れたので、聊か心強いこととなつて、ドーカ、遣 り遂げたいと思つて居ると、ちょうど、不圖したことから、 明版の一切経が手に入りまして、大に都合の善いことに なつて来た、この分では、成功せぬことはあるまいと、 決意して了ひました、此時は明治十二年の頃です、 それで、其事を山城屋佐兵衛と云ふ書林の主人に話し ました、山城屋と云へば、今日は失くなりましたが、 日本橋に須原屋と幷んで盛んに商売をして居たので、 本名は稻田佐吉と云ひます、其男も大に賛成して呉れ て、それから、其の親戚の色川誠一と云ふ者に相談を した、其の色川は、嘗て西洋へ往つて、印刷事業に就 いて研究した人ですから、之にも充分相談をしたので す(此の色川は、今でも富士製紙会社の理事をして居 ります)―そこで、話は一通り纏まつて、創業費は 山城屋が出すこととなり、色川は、其の創業費を携帯し て、京都へ向かつて往きました、勿論、其頃は、佛教各 宗の宗務所などは、東京に出来ない頃でしたから― 各宗本山へ遊説に往つたのです、

四、着手の準備

其時は、私は社寺局に居ましたから、斯う云ふ計画 を助けるには、幾分か便利もありましたが、何にして も随分の大事業ですから、其様迂闊には始められず、 種々工夫もして見ました、其中に色川は帰って来た、 最初の計画ほども往かなかつただが、兎に角、本願寺で 非常に賛成して呉れたので、餘程元気も付き、夫から 色川も一心に働いて居ました、

處が、稻田佐吉は、資本金のことに就いて、山東直砥 と云ふ人に相談しました、山東直砥は、今では多生、 耶蘇教者の間に有名な人ですが、「山東玉篇」などと云 ふ字典を作られたことのある人で、其様な関係から、大 方山城屋が相談したのでしやう、幸に山東も賛成して、 まづ金主は山東が斡旋することとなり、山東氏より紀州


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