Info:ndljp/pid/781562/13

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の人で岩橋萬蔵と云ふ人に相談をし、岩橋より又、大 坂の千種屋と云ふ紳商の平瀬安兵衛に相談して、其の 平瀬が金主となつて、略ぼ事業の基礎だけは成り立ちま した、

さて計画か成り立つたに就いては、社長も要る、事務 所も要るから、此の藏経開版の事務所を「弘教書院」と 名づけ、…之は私が名けたのです…山東直砥を社 長に仰いで、事務萬般の整理に着手しました。

ですから、最初の計画はまあ是だけの人数であつた ので。それから後には随分種々の人も入つて来ました、 勿論私共などは、藏経の開版せらるるのを主として望 んだのであるが、また多少、其間に利潤を望んだ人も ある處から、自然面白くない人物もあり、面倒なことを 云つたものもあつて、種々の変動もありましたが、兎 に角、始から終まで継続して、弘教書院の為に努力し たのは、

稻田 佐吉  色川 誠一  山内 瑞圓

山東 直砥  島田蕃根

の五人でした、其中でも、一番効績のあつたのは、山 東と、色川の両人です、

五、印刷の準備

さて此れまで手筈が運んで来ましたから此次は活版 の方を準備せんければならぬ、何にしても、彼の時代 ですから、完全な活版屋はないので、京橋元数寄屋町 四丁目二番地に、稻田所有の活版所があつた、それを 弘教書院活版所と名けて、此處で印刷することとなりま した、併し、之も暫くの間で、後には、印刷の全部を、 大蔵省の印刷局へ廻すことにしましたが、兎に角、最初 は、そこで印刷する積りであつたのです、

 次には紙、紙も土佐国へ注文しまして、全部あちら から取り寄せたのです、明治始まつて以来の大部の出 版ですから、紙も大分買ひました、

 序に云つて置きますが、實に此の前後に於るる色川 の盡力は大層なもので殊に豫約募集等に対する奔走は 非常なものでした豫約のことも、私は善く知りませんが、 何でも、最初百二十圓の積りであつたのですが、其の

後山東が来て、其では?も遣り切れぬと云うて遂に百 六十圓に値上げをしたと覚えて居ます、併し私は、御 存知の通り、外に職務があるから、唯だ?起して、其 の事業の端緒を開いたばかりで、別に會計のことなどに 拘わらぬから、或は誤つたことを申したかも知れませぬ、 で、實際の印刷した部数は、二千五百部です、初めは 一千部の見積でしたが、印刷するには、二千五百部刷 つたので、金さへ残らず集まれば、中々損のゆくことは なかつたやうに思はれます、

 六、校合の模様

斯くの次第で、兼ねて増上寺の行誡上人と相談致し置 きたるを以て資本金の目途立たる事故行誡上人も大に 随喜せられ準備の方は、大抵出来ましたが、差當り困つ たのは、藏経の校合でした、何にしても、大部のもので はあり、それに、校合すべき藏経か無いので、甚だ困 難しましたが、其時に最も嬉しかつたのは、増上寺の 行誡上人が、思ひ切つて、弘教書院の爲に、増上寺所 蔵の三大藏を貸して呉れたことです、前にも申した通

り、高麗蔵の完全なものは、増上寺にあるばかりですから、 増上寺の大蔵を借りなければ手が着かないので、 云はば此の事業も完全に往かなかつたのでしやう、然 るに大蔵と云へば實に山門の寶として重んじて居たの ですから、若し時勢に通じない人が、住職でもして居 れば、とても、我々の仲間へ貸して呉れることはなか つたのですが、そこは行誡上人だけに、感心なことに は、直ぐに貸して呉れました、全躰、増上寺の三大蔵 と云へば、眞に天下の至寶で、それぞれ由来がある、 昔から増上寺の倉庫の中に三大蔵があつた譯ではな い、孰れも徳川公の力に依つて、日本中から集めたも ので、三大蔵とは、宋蔵、元蔵、高麗蔵、の三種で、 此外に明蔵と云ふのが、今日世に流布している黄檗版 の藏経なのです、今其の宋蔵、元蔵、高麗蔵の三種が増 上寺に集つた次第を調べると、 (一)高麗蔵は(六千四百六十七巻)??大和國忍辱山 圓成寺の所蔵なり、傅へ云ふ、後土御門天皇文明年 間寺主榮弘の請する所、慶長十四年大将軍食邑百五

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