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物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深
 
物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深
 
く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか
 
く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか
ら、時の名家たる皆川淇園或は
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ら、時の名家たる皆川淇園或は頼春水といふやうな學
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者と親しく交つて、其の詩文集を出版した時には三條
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公から序を賜り、又友人の春水が其の子の頼襄(即ち
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山陽外史)に之を浄寫させて、之を出版し又友人たる龜
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井道載も篠崎應道(小竹の父)も共に序を作つて居るの
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を見ても、其學術文藝が如何程深くあつたかと云ふこ
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とが推し量られるのである、況んや龜井道載の如きは
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九州中國の間に於て古學の門戸を張り一方の老儒先生
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たるにも拘らず其子の昭陽を特に此の藍泉法印の門下
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に學ばせたといふ事であるから、餘程其學門に就いて
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は敬服して居つた者であると見える、斯様なわけであ
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るから、徳山藩におかれても、此人を優待せられて一
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藩子弟の學事を
  
  

2014年5月31日 (土) 17:02時点における版

其後元和三年に、毛利輝元の子就訓が封を分つて、周 防徳山の城主になられたが、其時に彼の良盛法印は、 輝元の命令を受けて就訓に随ひ徳山に移り、就訓は之 が爲めに、修験道の寺を建てて教學院と名け、用人席 の待遇をもつて本山派(即ち聖護院門跡の末寺たる) の山伏となることを得せしめられたのである、一寸茲 で申しておきますが、修験と申す者は、慶長五年徳川 幕府に於て定められたる條目にも「七社引導は修験の 職たる可き事」とあるので、即ち島田家は其後毎年毛 利氏の代参として七社を巡拝するのを大事の役目とし て居つたので、其後代参に出發する時には君公の御 代参と云ふのであるから、毛利家に於ては餘程鄭重に 取扱はれたものであるさうである、其後久しい間格 別の事もなかつたが、彼の始めて修験になつた元祖の 良盛から九代目が即ち蕃根翁の祖父であつた、此人は 餘程の學者であつて色々面白いお話のある人である、 然しながら今は委しいことを申して居る暇がありませ んから、極めて大略を申して置きませう、

先づ其人は名を浄観と申し別號を藍泉と申して、彼の 物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深 く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか ら、時の名家たる皆川淇園或は頼春水といふやうな學 者と親しく交つて、其の詩文集を出版した時には三條 公から序を賜り、又友人の春水が其の子の頼襄(即ち 山陽外史)に之を浄寫させて、之を出版し又友人たる龜 井道載も篠崎應道(小竹の父)も共に序を作つて居るの を見ても、其學術文藝が如何程深くあつたかと云ふこ とが推し量られるのである、況んや龜井道載の如きは 九州中國の間に於て古學の門戸を張り一方の老儒先生 たるにも拘らず其子の昭陽を特に此の藍泉法印の門下 に學ばせたといふ事であるから、餘程其學門に就いて は敬服して居つた者であると見える、斯様なわけであ るから、徳山藩におかれても、此人を優待せられて一 藩子弟の學事を


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