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拙者か新文の論説に於て育兒事業の肝要なることを論
 
拙者か新文の論説に於て育兒事業の肝要なることを論
 
じたのを臨済宗の今川貞山師が賛成して頼りに心配し
 
じたのを臨済宗の今川貞山師が賛成して頼りに心配し
て夫が??性行したのは、翁が
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て夫が??成功したのは、翁が
  
  

2014年7月2日 (水) 15:44時点における最新版

れ其許可を得たが、是が先づ維新後に於ける廢藩の嚆 矢であつたので、翁はいづれ遠からず各藩共に廢さる ることを早く看破せられたのであつたが果して其年の うちに各藩すべて廢藩せらるることになつたのである 其の后暫くは閑散であつたが翌年の三月に教部省を置 かれたに就いて友人の宍戸?氏から上京を促され其十 一月に教部省九等出仕となり後、大録に任ぜられ、佛 教の爲にも少なからぬ助力を與へられたが、明治十年に 教部省が廢せらるると共に翁も廢官となり、一年おい て十二年に内務省の社寺局に出仕を命ぜられ、又内閣 の記録局だの脩史局だのと處々に轉任せられたが、翁 の生涯は官員と云ふ方には敢て重きを置くべきでない から今茲に委しく申す必用もなからうと思ひ略して置 きます、

彼の教部省の廢官から社寺局へ出仕するまでの一年間 に於て翁が企てられた畢生の大事業たる一切經縮刷の 計畫について少くお話しておかなければならんと思ひ ます、即ち明治十一年のことであるが、眞言宗の僧侶

に山内瑞圓といふ人があつた、翁が其人に相談して、 内は高野山の管長獅嶽快猛、西本願寺の執事石原僧宣 といふ人等に謀り、外は稻田佐吉、山東直砥、色川誠 一等の諸氏の力を假り、福田行誡上人を始め、諸宗の 學匠達に校訂を頼んで、弘教書院と云ふを創立し、昔 から一口にいふ大藏經八千餘巻を僅に四百冊に縮刷 し、豫約の方法を以て誰にても容易に一切經を讀み得 らるるやうにしたので、實に古今に希なる大事業であ つたのである、是が日本に於て大部の書籍を縮刷する ことの濫觴であつた、其後田口卯吉博士が経済雑誌社 で、群書類従だの國史大系だのといふものを頼りに縮 刷して學術界に貢献することの多かつたのも億は嶋 田翁に謀る所があつて、翁の指導を受けられたのであ るさうである、又現に京都に於て續一切經の出版等に 従事して居るのも多く翁の教を仰いで彼の事業をやつ て居るといふ事である、尚其他にも聖徳太子の三經疏 を出版したり、又梵網經の上巻が世に行はれて居らな かつたのを始めて出版したり、絶えたるを繼ぎ廢れた

るを興された事も甚だ澤山にありますが、一々申述べ る事は出來ません、

夫から我國に於ては維新以後に佛教主義の慈善事業が 興つた事は福田會育兒院が第一番であつた、是は初め 拙者か新文の論説に於て育兒事業の肝要なることを論 じたのを臨済宗の今川貞山師が賛成して頼りに心配し て夫が??成功したのは、翁が


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