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家道たる修験の教理修法に通ずると共に、長ずるに及んで、諸子百家の學に亘り、あらゆる諸
 
家道たる修験の教理修法に通ずると共に、長ずるに及んで、諸子百家の學に亘り、あらゆる諸
 
家の雑著随筆を渉猟したので、博覧強記、類ひ無き人となつた。而して維新後には、藩主の命
 
家の雑著随筆を渉猟したので、博覧強記、類ひ無き人となつた。而して維新後には、藩主の命
に依つて
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に依つて祖父藍泉の創立した興譲館の教授とも爲り藩の大参事にも就任したが、廃藩後は上京
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して教部省に出仕し、大録に任ぜられ、同省廃止後は、内務省社寺局、内閣記録局及び修史局
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等に任官した。翁の畢生の大事業たる「縮刷大藏經」出版は、實にこの教部省廃止後、社寺局へ出仕する一年間に於て、企てられたものである。時に明治十年であつた。
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 島田翁の「縮刷大藏經」出版の動機に就ては、翁みづから語つてゐるところが、その傅記の中に載つてゐる。今その要點を適記すると、
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 翁は嘗て
  
 
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2014年2月27日 (木) 22:06時点における版

弘教書院の「縮刷大藏經」全部四十帙四百十九冊は、我國に於て大藏經が活字本となつた最初 のもので、これが明治の佛教界乃至思想界に?した効果の偉大なことは申すまでもないが、ま た一方に於ては、これは明治の上半期に於ける空前の大出版であつて、出版文化の上にも、一 時期を劃したものといつてよい。この「縮刷大藏經」が出版された後に、藏經書院の手に依つて、「卍一切藏經」正續百五十一帙七百五十一冊が上梓され、更に大正年間に入つて高楠博士等 監修の下に、「大正新脩大藏經」が完成されるに至つたのであるが、何れにするも「縮刷大藏經」 は、此等の大藏經出版の先鞭を着けたもので、それだけこの難事を擔當した島田翁等の苦心 も、並大抵ではなかつたのである。

此より「縮刷大藏經」出版の経過に就て述べたいのであるが、その前に一通りその中心人物で あつた島田蕃根翁に就て、語つて置く必要がある。翁は舊周防徳山藩の出身で、その家柄は修 験道であつたが、父祖以来代々學者が輩出した。祖父の浄觀といふ人は別號を藍泉といつて、 物徂徠の高弟であつた瀧鶴薹の門人であり、皆川洪園、賴春水、龜井南冥等の學者と親交があ り、特に南冥は、その子昭陽を藍泉の門に就かしめた位であるから、その學德の程も想像され る。父の義乗といふ人も、相當の學者であつたらしい。翁はこの間に育つて家學を承け、その 家道たる修験の教理修法に通ずると共に、長ずるに及んで、諸子百家の學に亘り、あらゆる諸 家の雑著随筆を渉猟したので、博覧強記、類ひ無き人となつた。而して維新後には、藩主の命 に依つて祖父藍泉の創立した興譲館の教授とも爲り藩の大参事にも就任したが、廃藩後は上京 して教部省に出仕し、大録に任ぜられ、同省廃止後は、内務省社寺局、内閣記録局及び修史局 等に任官した。翁の畢生の大事業たる「縮刷大藏經」出版は、實にこの教部省廃止後、社寺局へ出仕する一年間に於て、企てられたものである。時に明治十年であつた。  島田翁の「縮刷大藏經」出版の動機に就ては、翁みづから語つてゐるところが、その傅記の中に載つてゐる。今その要點を適記すると、

 翁は嘗て

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