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2014年5月31日 (土) 15:05時点における版

其後元和三年に、毛利輝元の子就訓が封を分つて、周 防徳山の城主になられたが、其時に彼の良盛法印は、 輝元の命令を受けて就訓に随ひ徳山に移り、就訓は之 が爲めに、修験道の寺を建てて教學院と名け、用人席 の待遇をもつて本山派(即ち聖護院門跡の末寺たる) の山伏となることを得せしめられたのである、一寸茲 で申しておきますが、修験と申す者は、慶長五年徳川 幕府に於て定められたる條目にも「七社引導は修験の 職たる可き事」とあるので、即ち島田家は其後毎年毛 利氏の代参として七社を巡拝するのを大事の役目とし て居つたので、其後代参に出發する時には君公の御 代参と云ふのであるから、毛利家に於ては餘程鄭重に 取扱はれたものであるさうである、其後久しい間格 別の事もなかつたが、彼の始めて修験になつた元祖の 良盛から九代目が即ち蕃根翁の祖父であつた、此人は 餘程の學者であつて色々面白いお話のある人である、 然しながら今は委しいことを申して居る暇がありませ んから、極めて大略を申して置きませう、



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