「Info:ndljp/pid/781562/8」の版間の差分

提供: TranscribeJP
移動: 案内検索
(ページの作成:「其後元和三年に、毛利輝元の子就訓が封を分つて、周 防徳山の城主になられたが、其時に彼の良盛法印は、 輝元の命令を受け...」)
 
18行: 18行:
 
んから、極めて大略を申して置きませう、
 
んから、極めて大略を申して置きませう、
  
 
+
先づ其人は名を浄観と申し別號を藍泉と申して、彼の
 +
物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深
 +
く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか
 +
ら、時の名家たる皆川
  
  

2014年5月31日 (土) 15:07時点における版

其後元和三年に、毛利輝元の子就訓が封を分つて、周 防徳山の城主になられたが、其時に彼の良盛法印は、 輝元の命令を受けて就訓に随ひ徳山に移り、就訓は之 が爲めに、修験道の寺を建てて教學院と名け、用人席 の待遇をもつて本山派(即ち聖護院門跡の末寺たる) の山伏となることを得せしめられたのである、一寸茲 で申しておきますが、修験と申す者は、慶長五年徳川 幕府に於て定められたる條目にも「七社引導は修験の 職たる可き事」とあるので、即ち島田家は其後毎年毛 利氏の代参として七社を巡拝するのを大事の役目とし て居つたので、其後代参に出發する時には君公の御 代参と云ふのであるから、毛利家に於ては餘程鄭重に 取扱はれたものであるさうである、其後久しい間格 別の事もなかつたが、彼の始めて修験になつた元祖の 良盛から九代目が即ち蕃根翁の祖父であつた、此人は 餘程の學者であつて色々面白いお話のある人である、 然しながら今は委しいことを申して居る暇がありませ んから、極めて大略を申して置きませう、

先づ其人は名を浄観と申し別號を藍泉と申して、彼の 物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深 く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか ら、時の名家たる皆川


<trjpft> 「島田蕃根翁」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>仮名遣い混在</kstyle><tstyle>Wikiのみ</tstyle></astyle> </trjpft>