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  【一】金剛石丸誕生の事

 一千八百九十三|年《ねん》の春《はる》、花《はな》の都《みやこ》はフランスのパリーで、玉《たま》のやうな男《をとこ》の子《こ》が生《う》まれました。世間《せけん》でよく言ふ「玉《たま》のやうな」には時々《とき/\》偽《に》せものがあつて泥《どろ》で作《つく》つた球《たま》のやうな子供《こども》でもお世辞《せじ》で「玉《たま》のやうな」と言《い》ふのであるが、今《いま》皆《みな》サンに私《わたし》がお話《はな》し致《いた》さうとしてゐる此《この》子供《こども》は、正直正銘《せうじきせうめい》、懸値《かけね》なしの玉《たま》のやうな子供《こども》なのです。玉《たま》のやうな[#「やうな」に傍点]どころではありません、玉《たま》ソツクリなのです。其《その》キラキラする光《ひかり》には、傍《かたはら》に居合《ゐあ》はせた人々《ひと/\》誰《た》れも驚《おどろ》かぬものはありませんでした。昔《むかし》秀吉《ひでよし》といふ大将《たいしやう》の眼《め》の光《ひかり》は、万人《まんにん》に優《すぐ》れ、敵方《てきがた》の豪傑《がうけつ》佐久間玄著《さくまげんば》が鉄《てつ》の棒《ぼう》を以《もつ》て秀吉《ひでよし》に立向《たちむ》かつた時《とき》、其《そ》の一にらみに射《い》られて玄蕃《げんば》も目《め》くらみ落馬《らくば》したといふ話《はなし》がありますが、それにも劣《おと》らぬ鋭《するど》い光《ひかり》の子《こ》でありました。

 赤坊《あかんぼ》が生《う》まれる時《とき》に産湯《うぶゆ》をつかはせる事《こと》は御存知《ごぞんぢ》でせう。只今《たゞいま》申《まを》した男《をとこ》の子《こ》の産湯《うぶゆ》は、世間並《せけんなみ》とは大部《だいぶ》異《ことな》り、電気炉《でんきろ》と申《まを》す炉《ろ》の中《なか》で、三千|度《ど》近《ちか》い高温度《かうをんど》に熱《ねつ》せられ

<trjpft> 「炭素太功記 : 理科読本」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新字</gstyle><kstyle>旧仮名</kstyle><tstyle>青空</tstyle></astyle> </trjpft>