Info:ndljp/pid/781562/14
十石を與へて之を請す、
(二)宋蔵は(五千七百十四巻)宋の理宗嘉煕三年安 吉州思渓、法寶資福寺の重ねて彫る所、?と、近江 國伊香郡菅山寺の藏する所なり、傅へ云ふ、後宇多 天皇建治元年乙亥寺主專暁の請する所なりと、慶長 十八年大将軍食邑五十石及び山林を以て之を請す (三)元藏は(五千三百九十七巻)元の順宗の至元二十 七年杭州餘杭縣、白雲山大普寧寺、思渓福州の二本 を以て校刻する所、?と、伊豆國走湯山修禪寺の藏 する所慶長十五年大将軍食邑四十石を以て之を請す
即ち三ヶ所から、寄せ集めて、而かも澤山の食邑と取 換へて、僅に増上寺に集めたもので、徳川氏の注意は、 實に稱すべきものです、其後、唯だ増上寺の寶物とし て僅に存して居たものが、此の縮刷藏の開版に依つ て、忽ち校合用の珍本となつたのは、我々にも非常の 幸であり、又、藏經そのものの爲にも大なる幸ひであ つたと思ひます、
そこで斯くの通り校合のの藏經は揃ひましたか、最
初は弘教書院を京橋山城町に置きましたのを、行誡上 人の好意に依つて増上寺大門前の源興院に移し、此處 で校合を始めることになりましたが、さあ困つたのは、 其の校合に従事する人物です、生中な人物では、此の 大藏校合には取掛れませぬから、大分困難を感じまし たが、兎も角も各宗から、それぞれ人物を撰んで校合 に従事することになりました。
七、校合の人物
校合には、實に骨が折れました、實に人物の乏しい のには困難しました、ですから、『明教新誌』あたりへ も廣告までして其の志あるものを募つたのです、其廣 告文を見ると、一寸面白いです、
○一切經對校者募集廣告
本院縮刷一切經對校者今般増員致し候に付、有志の 僧衆は至急御照會有之度候也
但し護法篤志者にして、容易に無點の教典を讀得 る者に限るべし、
東京芝公園地第三號 弘教書院
之は明治十三年の暮に出した廣告です、けれども其様 自ら進んで来る人は少ないものですから、段々と相談 もあつて、遂に各宗から、それぞれ任命して、出来さ うな人物を出すこととなり、従前、弘教書院と相對で 約束して来て居た人等は、明治十四年の四月に解任し て、更に、公選の校合者を入るることとなりました、 尤も従前から勤めて居て、引続き校合者となつた人も あります、中でも、重なる人は天台宗で、岩本榮中、 眞言宗で飯島道實(居士なり)、浄土宗で森亭闇、千葉 寛鳳、臨済宗で朝木英叟、東海玄虎、桑宜動、神山義 容、天野宜格、眞宗専派で櫻木谷範隆、曹洞宗で假に 佐藤道悟、まづ是等の人は引続き従事して居りました 今、後日の爲に當時の校雕者を調べて見ると、
東京芝區愛宕下銭照院寄寓眞言宗居士 飯島 道實 美濃國武儀郡高野邑臨済宗永昌寺徒弟 東海 玄虎 美濃國眞島郡垂見邑同宗佛土寺徒弟 桑 宜動 東京築地眞宗應善寺住職 松岡 了厳 近江國蒲生郡豊浦邑天台宗東南寺住職 櫻木谷慈薫
武藏國橘樹郡神奈川町眞宗長延寺住職 雲居 玄導 駿河國益津郡郡村臨済宗慶全寺前住徒弟 天野 宜格 豊前國宇佐郡日足村曹 洞宗地蔵院前住徒弟 佐藤道悟 東京下谷區南稲荷町眞宗南松寺住職 櫻木谷 範隆 信濃國南佐久郡跡部村浄土宗西方寺住職 森 亭闇 紀伊國海部郡湊村天台宗明王院住職 蘆津 實全 東京赤坂臨済宗種徳寺住職 朝木 英叟 近江國滋賀郡比叡山坂 本村天台宗正觀院住職 岩本 榮中 伊勢國安濃郡垂見村眞言宗成就寺住職 牧 政純 遠江國榛原郡牧谷原士族 伊佐 岑満 上野國勢多郡大胡町浄土宗養林寺住職 月性 豊民 上總國長柄郡高洲驛日蓮宗實相寺住職 守本 惺亮 駿河國富士郡大鹿村日蓮宗三澤寺住職 齋藤 日一 武蔵國南葛郡?戸村眞言宗普門院住職 千葉 賢永 三河國碧海郡河野村眞宗東派宗園寺衆徒 太田 祐慶 山城國紀伊郡伏見同宗西方寺副住職 兼松 空賢 丹波國與謝郡須津村臨済宗江西寺徒弟 外山 義文 東京芝公園地廣度院住職 千葉 寛鳳
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