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<trjpft> 「日本剣豪列伝」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>仮名遣い混在</kstyle><tstyle>Wikiのみ</tstyle></astyle> </trjpft> で 「先生、御病氣では?」  と、聞くと 「いゝや」  と、云つたが、その夜、ぽつくりと死んでしまつた。明かに、無理をしすぎたのであつた。「人に勝たうとするには、技より心—徳をまづ修めることぢや。心が勝てば、敵は自然に屈してくる。眞の勝とは、技で勝つ事でなく、心の徳で勝つのをいふ」  かうした教訓を、僅か二十七歳で死んだ靜山は、人に云つていたのだから、いかに人格が立派であつたかゞ、うかがへる。この山岡靜山が 「わしの技を繼ぐに足る門人は、小野鐵太郎だが、小野は大身だし、わしは、小身の上に貧乏だし、釣合はぬ緣ぢ やとおもうてをるが—」  と云つてゐたと、小野鐵太郎が聞くと共に 「私でよろしければ、山岡の家を繼ぎませう」  と、—この小野鐵太郎が、山岡をついで、山岡鐵太郎即ち鐵舟になつたのである。  小野鐵太郎は、小野朝右衞門の第五子で、家は六百石の大身。山岡は、貧乏旗本であつたが、見込んだ山岡靜山、見込まれた小野鐵太郎。六百石の家から小身の山岡へ、師恩に感じて、養子に行った鐵太郎。こゝに、二人の人格が、単に武技の優れてゐるから、といふ事の上に、光つてゐる。  鐵舟が後年の得意の技である、突きは、この時に修行した槍の呼吸から、出てきたものであらう。  山岡家に入つて、二十歳の鐵舟は、旣に「鬼鐵」と稱されて、恐れられてゐた。

幼年の鐵舟と貧乏話

 小野鐵太郎、十五歳といふ子供の時に、「修身二十則」といふものを作つて、座右の銘とした。曰く。  一、譃いふべからず  二、君の恩忘るべからず  三、父母の恩忘るべからず  四、師の恩忘るべからず  五、人の恩忘るべからず