Info:ndljp/pid/1134657/9

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<trjpft> 「日本剣豪列伝」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>仮名遣い混在</kstyle><tstyle>Wikiのみ</tstyle></astyle> </trjpft>    六、神佛並に長者を粗末にすべからず    七、幼少を侮るべからず    八、己に心よからざる事を、他人に求むべからず    九、立腹は道にあらず   一〇、何事も不幸を喜ぶべからず   一一、力の及ぶ限りよき方につくすべし   一二、他を思はず、己のよき事のみすべからず   一三、食する度に、稼穡の艱難を思ひ、草木土石にても粗末にすべからず   一四、殊更に着物をかざり、うはべをつくろふ者は心に濁りあると心得べし   一五、禮儀を亂るべからず   一六、いつ何人に接するも、客人に接するよう心得べし   一七、己の知らざる事は、何人にても學ぶべし   一八、名利の爲に學問技藝すべからず   一九、人には總て能不能あり、一がいに人を捨て、あるいは笑ふべからず   二〇、己の善行を誇り顏に人に知らしむべからず、總て我心に恥ぢざるにつとむべし  と、いふようなものである。十五歳の少年として、格別に深い文句もないが、これを守つた事は、当今の學生の比ではない。さればこそ山岡靜山が、見込んで、己の跡を繼がせたいと云つたのである。  後年になつても、山岡鐵舟の貧乏といへば有名なものであつた。それは、何の收入もなく、ただ貧乏であつたのではなく、入るもの、ことごとく人に散じて、己につけぬからであつた。  畳は赤くなつてすり切れてゐるし、床の間には「本來無一物」とかいた掛物一つかゝつてゐるきり—その外には何一つの装飾品もなく、妻の英子は、せつせと觀世よりを作つてゐるが、これが內職であつて、質屋にもつて行つて、賣るのである。それで、家の中には、ごろごろと食客がゐる。  後年功によつて、子爵となつたが、貧乏は同じで、御内帑から五千圓を下賜されても、全生庵と鐵舟寺へ納めて自分は一金もつけなかつた。  それでゐて、人の貧乏を見ると、すぐに助けたい性で、自分に金が無いと、人から借りるが、山岡の人格に敬服してゐる人は、喜んで求めに應じた。 「先生、證文などいりませぬ」 「いや、さうはいかん」