Info:ndljp/pid/887377/7

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草履を取らせたるがとある松の蔭に雨宿りして今しも少し降止たるを見て静々と歩み出て彼の茅屋の軒に佇み縄簾を巻て内を見遣り「叟よ叟よ」と音信バ、主の老人ハ折焚く柴の烟の中より外を透し見て、老人「左様にお呼びあるハ誰殿で御座るか武士「イヤ苦しからず徳兵衛ぞ」と云ひつつ編笠取てスツと入り土間に草履を脱放し刀を提げて遠慮も無く圍爐裏の傍に座を占むれバ、老人ハ徳兵衛と云へる一言に胡坐の膝を直しやをら立上がりて武士の傍に来り老人「オオ郎君で御座つたよな、どうして是へハお出でなさいました、よく知れて御座りましたなア」と納戸の内より遽だしく花蓙を持出して上座に敷きて客人を座らせ己は主の座に就て稽首々々暫し武士の容貌を眺めて嬉し涙に睫を濡し鼻洟打かみて老人「思ひ廻せバ四年前泉州堺の浦にてお別れ申せし其時に私し事ハ是より江戸へ参り品川邊に知己のあれば其方に落着申すべしと郎君へ申し上げ夫より此地へ参り幸いの飛脚便に頼み堺へも長崎へも度々文通ハ致したれど只の一度も御返事がなくどうして御座るやらと明暮に夫ばかり案じて居ましたに宜まア御無事で立派なお武家にお成なされましたなア、シテ只今の御身分ハ」と老人の癖とて息せき尋ぬれバ、武士は老人が思の外に年よりて衰へたるを見てそぞろ涙を催して武士「いかにも叟が手紙ハ当年六月長崎にて請取り堺にても届たれバ直に返事をとは思ひしがどうで江戸表へ出るからハと存じて返事も飛脚に出さざりし怠りハ許して呉い扨て堺にて叟に別れし後ハ船乗家業ハ思ひ止つて外に立身の手段をとハ思ったが何を云ふにも小童の某し武藝兵法とても不鍛錬ゆゑ是と申立て奉公住する便ハなし夫よりは幼少の頃から叟のお蔭で習ひ覺えし船乗業七ツの年から黑船に乗込で暹羅東京安南交趾呂宋澳門その外と南蠻通に二十まで海で育った此の徳兵衛なまじ武家奉公で僅の知行に一生を退屈に送らうより追手に八帆の羽を伸ばし大海の空を翔廻るが遥に勝つて面白いと思ひ定めて便船もとめ長崎に立越えて末次氏の持船に住込だる按針役それから次第に押上り今でハ南蠻通いの御朱印船永寶丸の船頭役十の年に暹羅にて山田仁右衛門長政殿に貰受けたる苗字を繼で山田徳兵衛長崎平戸堺でハ天竺の奥までも往て見たる徳兵衛とて天竺徳兵衛と綽名を取たる此某し叟が意見に背いたハ悪けれど好な業ゆゑ許してたべ」と聞より老人は躍り上り「扨は名高い黑船の天竺徳兵衛とハ <trjpft> 「天竺徳兵衛」: 前頁 | 次頁 近代デジタルライブラリーの当該頁へ <astyle><gstyle>新旧字混在</gstyle><kstyle>仮名遣い混在</kstyle><tstyle>Wikiのみ</tstyle></astyle> </trjpft>